LOGIN朝は、いつも通りに来た。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。 遠くで車が走る音がして、どこかの部屋のドアが閉まる音がした。 誰かが一日を始めている。 昨日、私が悠斗に別れたいと言ったことなんて、世界のどこにも関係ないみたいに。 私は布団の中で、しばらく目を開けたまま動けなかった。 隣は空いている。 悠斗は、リビングのソファで寝ると言った。 私はそれを止めなかった。 止めたかったのかもしれない。 でも、止めたらまた、何かを曖昧にしてしまう気がした。 別れたいと言った夜に、同じベッドで眠ることは、今の私にはできなかった。展示の日が近づくにつれて、私は少しだけそわそわしていた。 仕事をしている時はいつも通りなのに、ふとした瞬間に思い出す。 器と写真展。 書店の二階。 朝倉さんの名前。 水色の花瓶を買った日にもらったチラシ。 それはノートに挟んである。 何度も見る必要はないのに、夜になるとつい開いてしまう。 開催日も、時間も、もう覚えている。 それでも確認したくなる。 そういう自分が少し恥ずかしくて、でも嫌ではなかった。 私は丸いテーブルに肘をつき、ノートの間からチラシを取り出した。 白地に、器と光の写真。 派手ではない。 でも、静かに目を引く。 暮らしの中にあるものを、ちゃんと見ようとしている写真だと思った。 朝倉さんの撮るものは、そういう感じがする。 通り過ぎてしまいそうなものを、無理に飾らずに見せてくれる。 私はチラシの端を指でなぞった。 楽しみにしている。 その言葉を、心の中で言ってみる。 前なら、すぐに打ち消していたかもしれない。 楽しみにしすぎると、期待しているみたいで恥ずかしい。 誰かに会えるかもしれないことを嬉しいと思うのは、まだ早い。 そうやって、自分の気持ちに先回りして蓋をしていた。 でも今は、少し違う。 楽しみなら、楽しみでいい。 会えたら嬉しいなら、嬉しいでいい。 その気持ちが誰かを困らせるわけではない。 私が私の中に持っているだけなら、誰の負担にもならない。◇ 翌日の昼休み、森下さんが私の席に来た。「藤崎さん、今週末ですよね」「何が?」 聞き返してから、少しだけ目をそらした。 森下さんはにこっと笑う。「展示です」「あ……うん」「
来月の展示まで、まだ少し日があった。 それでも私は、時々カレンダーを開いて予定を確認していた。『器と写真展』 その文字を見るたびに、胸の中に小さな灯りがともる。 誰かとの約束ではない。 朝倉さんと会う約束をしたわけでもない。 けれど、私が楽しみにしている予定だった。 そのことが、今は大切だった。 以前の私は、予定を入れる時、まず誰かの都合を考えていた。 悠斗の帰宅時間。 食事の準備。 週末の買い物。 洗濯のタイミング。 それらを避けるように、自分の予定を端へ寄せていた。 行きたい場所があっても、あとでいいと思った。 読みたい本があっても、時間ができたらと思った。 その「あとで」は、なかなか来なかった。 今は違う。 私はカレンダーに、自分のための予定を入れる。 書店。 喫茶店。 森下さんが来る日。 花瓶を探す日。 そして、器と写真展。 どれも小さな予定だけれど、私の生活を少しずつ前へ動かしている。◇ 仕事帰り、私は書店に寄った。 展示までまだ日があるせいか、掲示板のチラシは前と同じ場所に貼られていた。 私はその前で足を止める。『小さな器と暮らしの写真展』 白地に、淡い影の落ちた器の写真。 テーブルの端。 湯気の立つカップ。 窓から入る光。 朝倉さんの写真なのか、器の作家さんの写真なのか、そこまでは分からない。 でも、そのチラシを見ると、自分の丸いテーブルを思い出した。 白い器。 欠けたグレーのマグカップ。 木のトレイ。 水色の花瓶。 ひとつひとつを選ぶことが、最近の私には少し楽しい。 器なんて、使えればいいと思ってい
月曜日の昼休み、私は佐伯さんと千尋に囲まれていた。 いつものカフェの窓際席。 私の前には紅茶。 佐伯さんの前にはアイスコーヒー。 千尋の前には、なぜか大きめのサンドイッチがある。「で、花瓶監査見習いの報告は?」 佐伯さんが開口一番に言った。 私は思わず笑った。「本当に聞くんですね」「当たり前でしょ。こちらは本部だから」「本部だったんですか」「知らないうちに組織化してる」 千尋がサンドイッチを持ったまま真顔で頷いた。「段ボール王国の文化財保護部門も兼任しております」「誰が任命したの」「王国の空気」「雑」 私が笑うと、佐伯さんも少し口元を緩めた。「森下ちゃん、どうだった?」「すごく喜んでくれました」「部屋を?」「はい。花瓶も、カーテンも、クラゲも」「クラゲも監査対象なの?」 千尋が興味津々で身を乗り出す。「森下さんは、クラゲちゃんって呼んでました」「昇格してる」「何に?」「住民票を得た」「クラゲに住民票」 くだらない話なのに、胸が軽くなる。 私は紅茶を一口飲んだ。 月曜日の昼休み。 仕事の合間。 それなのに、私の部屋の話をしている。 誰かの帰りを待っていた頃には、こんなふうに自分の生活を外へ話す時間があまりなかった。 話すことは、悠斗のことや家の段取りや、仕事の進捗ばかりだった気がする。 今は違う。 私の部屋に花瓶がある。 友人が来た。 それを、こうして話せる。◇◇◇◇「森下さんに言われたんです」 私はカップを置いた。「全部ちゃんとやろうとしなくていいって、前に私が言った言葉が、今の私に
森下さんが帰ったあとの部屋は、少しだけ違って見えた。 カップを洗って、皿を拭いて、木のトレイを棚に戻す。 テーブルの上には、森下さんが持ってきてくれた焼き菓子の残りが小さな袋に入っている。 窓辺には水色の花瓶。 淡いオレンジの花。 その隣のクラゲ。 いつもの景色なのに、そこに誰かの声が残っている気がした。 藤崎さんのお部屋です。 ちゃんと好きなものを置いてる感じ。 自分のことをちゃんと好きにしようとしてる感じ。 森下さんの言葉を思い出すと、胸の奥が少し温かくなる。 私は濡れた手をタオルで拭き、二脚目の椅子を見た。 さっきまで森下さんが座っていた椅子。 千尋が座った時とは、また違う余韻がある。 千尋は笑い声と勢いを置いていった。 森下さんは、部屋の中にある小さなものをひとつずつ見つけてくれた。 同じ椅子なのに、座る人によって残るものが違う。 それが、少し不思議で、少し嬉しかった。◇◇◇◇ 私は焼き菓子の袋を手に取った。 森下さんは「気を遣いすぎない量にしました」と言っていた。 その言葉の通り、小さな詰め合わせだった。 多すぎず、少なすぎず、今日食べきれなくても負担にならないくらい。 私は袋の口を折り直して、棚の上に置いた。 明日の朝、紅茶と一緒に食べよう。 そう思う。 誰かが持ってきてくれたものを、翌日の自分の楽しみにする。 以前の私は、来客のあとに残ったものを「片づけなければいけないもの」として見ていた気がする。 洗い物。 ゴミ。 余った食べ物。 乱れたクッション。 でも今は、それらが全部、誰かが来てくれた証拠のように見えた。 もちろん片づける。 そのままにはしない。 でも、急いで全部を消さなくてもいい。
駅まで送ると言うと、森下さんは少し遠慮した。「大丈夫ですよ。一人で帰れます」「うん。でも、私も少し歩きたいから」 そう言うと、森下さんは嬉しそうに頷いた。「じゃあ、お願いします」 二人で部屋を出る。 鍵をかける前に、私は一度だけ中を振り返った。 丸いテーブル。 二脚の椅子。 窓辺の花瓶。 クラゲ。 使ったカップと皿は、まだシンクに置いてある。 前なら、誰かを送る前に洗ってしまいたくなったかもしれない。 水に浸けておいて、帰ってから片づければいい。 今はそう思える。 私はドアを閉め、鍵をかけた。
森下さんは、焼き菓子を小さな皿に並べながら言った。「実は、今日来るの少し迷ったんです」「え?」 私は紅茶のポットを置きながら聞き返した。「迷ってたの?」「はい。藤崎さんが誘ってくれたのは嬉しかったんですけど、私、職場の後輩ですし」「うん」「距離感、間違えたら嫌だなって」 森下さんは少し苦笑した。「藤崎さん、優しいから、嫌でも大丈夫って言いそうなので」 痛いところを突かれた。 私は思わず黙ってしまう。 森下さんは慌てたように手を振った。「あ、責めてるわけじゃないです!」「分かってる」「でも、前の藤崎さんなら、私が行きたいって言ったら、
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。
玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。







